
その人が、メモ帳を閉じた。
いつもと同じ音だった。
薄い紙が重なって、表紙が机に触れる。
それだけの、小さな音だった。
でも、その日だけは長く残った。
伝えなければならないことがあった。
あなたは間違っていない。
誰かを傷つけたわけでもない。
ただ、少し近づきすぎた。
相手が隠していたものに、気づきすぎた。
だから、しばらく離れてほしい。
そういう話だった。
言葉を選んだ。
できるだけ正確に。
誰も悪者にならないように。
余計な痛みが増えないように。
選んだ言葉を、一つずつ渡した。
その人は黙って聞いていた。
「私は、何か悪いことをしましたか」
していない、と答えた。
「そうですよね」
その人は、それ以上聞かなかった。
理由を知ろうとすれば、誰かの傷にもう一度触れることになる。
自分を守るための質問が、別の誰かを追い詰めることを知っていた。
だから、聞かなかった。
そして、メモ帳を閉じた。
静かな人だった。
受け入れたようにも見えた。
でも、静かに受け取ることと、傷ついていないことは違う。
その違いを、あの音が教えていた。
正しい言葉を選んだつもりだった。
丁寧に伝えたつもりだった。
それでも、何かが閉じた。
言葉は、伝えた瞬間に終わるのだと思っていた。
違った。
言った側の口から消えたあとも、
受け取った側では、ずっと鳴り続けることがある。
あの日から、ときどき思い出す。
自分の正しさではなく、
あの人がメモ帳を閉じた音を。
閉じる音—静川朔