
その人に、手紙を書こうと思った。
好きだったのかは、わからない。
憧れていた。
その人が使う言葉を、何度も思い返した。
知らない本の話も、行ったことのない街の話も、なぜか遠く感じなかった。
自分の中にあるのに名前がなかったものを、
その人が先に見つけてくれた気がした。
だから、伝えたかった。
便箋を前にすると、何も整わなかった。
最初の一行と、次の一行がつながらない。
同じことを何度も書いた。
文字は傾き、余白は足りなくなった。
うまい文章ではなかった。
その人の言葉を借りれば、もっときれいに書けたかもしれない。
でも、借りた言葉では足りなかった。
似ているけれど、少し違う。
その少し違う場所にしか、自分はいなかった。
書いている間、恥ずかしさを忘れていた。
手が先に動いた。
感情が追いかけた。
気づいたとき、何枚もの紙が机に散らばっていた。
読み返して、急に恥ずかしくなった。
みっともなかった。
形になっていなかった。
それでも、捨てようとは思わなかった。
届くかどうかより先に、
それが自分の中から出てきたものだと知っていた。
手紙を渡したかどうかは、もう覚えていない。
たぶん、大切なのはそこではなかった。
あの夜、書きながら初めて、深く息をした。
それまで息が浅かったことを、
深く吸ってから知った。
書くことは、誰かに届くための方法だと思っていた。
本当は、沈まないための——
自分の息継ぎだった。
息継ぎ—静川朔