
会いに行くのは、いつも自分だった。
学校が終わると、その人の家へ向かった。
坂を下り、細い道を曲がり、古い門の前で呼び鈴を押した。
扉を開けると、その人がいた。
何をしていても、一度だけ顔を上げた。
来たことを驚かず、遅かったとも言わず、少し笑った。
いつも自分が来る側で、
その人は待つ側だった。
子どもの頃は、それを不公平だと思わなかった。
行きたいから行った。
扉を開ければいると知っていた。
待っている人がいるということを、
自分が選ばれていることのように感じていた。
大人になって、会わなくなった。
最初は忙しかった。
その次は、少し気まずかった。
やがて、行かないことに理由も要らなくなった。
それでも、ときどき思った。
自分が行かなくなったあと、
あの人は待っていたのだろうか。
答えは、たぶんわからない。
待つことは、呼ぶことではない。
来てほしいと伝えることでもない。
だから、待たれている側は、
いつまでも待ってもらえると思ってしまう。
何も言わずに同じ場所にいることを、
変わらない約束のように受け取ってしまう。
でも、待つ人にも時間が流れる。
同じ椅子に座っていても、
同じ人のままではいられない。
いまなら、少しわかる。
あの人は、呼びに来なかったのではない。
自分が来ると、信じていたのかもしれない。
待つことは、
呼ばないという信頼だったのかもしれない。
来る側と、待つ側—静川朔