
いなくなってから、その人のことを前よりよく思い出した。
一緒にいた頃は、嫌なところも知っていた。
返事が遅いこと。
大事な話をすると黙ること。
こちらが忘れたい失敗を、よく覚えていること。
なのに、いなくなった途端、思い出の中から角が消えた。
笑った顔。
眠そうな声。
何も言わずに差し出された温かい飲み物。
やさしいものばかりが残った。
頭は、ときどき反対のことをした。
嫌いになるための理由を探した。
あの人にも悪いところはあった、と並べた。
嫌いになれたら、楽になると思った。
でも、嫌だった記憶の途中には、いつも温もりがあった。
切り離すことはできなかった。
忘れたいと思った。
忘れたくないとも思った。
その二つを同時に持っていることが、苦しかった。
時間が経てば、薄くなると言われた。
本当は、少し違った。
薄くなったのではなかった。
色が変わった。
触れれば痛かった記憶が、いつの間にか、少し離れた場所に置かれていた。
見えなくなったわけではない。
手を伸ばせば、まだ輪郭がわかる。
ただ、毎日触れなくても歩けるようになった。
それを、忘れたと呼ぶのかもしれない。
でも、自分の中では、忘れたことにしたくなかった。
あの時間は、本物だった。
終わったからといって、嘘になるわけではない。
いま隣にいないからといって、あのとき隣にいたことまで消えない。
思い出は、消えない。
消えないまま、遠くなる。
遠くなった場所から、
ときどき、こちらを照らす。
それくらいの距離で、
ようやく大切にできるものもある。
消えないまま、遠くなる—静川朔