凪のそばで
|2026-04-07

その人は、いい人だ。

貧しくてもそれを恥じない人だ。
見返りを求めず
自分を差し出すことで
立っている。

謙虚で、慎ましく。
それが美しいと背中で語っていた。
美しいと思う。

だけど、近い距離にいるのに
向き合えたという記憶がない。
そのままでいいと言われたことがない。

やさしかった。
いつもやさしく包んでくれた。
でも包まれているのに
その目には映っていなかった。

足りないわけではなかった。
壊れていたわけでもなかった。
わかりやすい悲劇はなかった。
ただ、見ていなかった。

その人は愛の深い人だった。
でもその愛は
遠くの誰かには美しく見えても
隣にいると苦しいものだった。

遠い距離でなら
誰も傷つくことなく
美しくいられる愛だった。

その人に愛されたいと願うことは
とても静かに苦しかった。

褒め言葉を
素直に受け取れなくなったのは
いつからだろう。

ありがとう、と返す声が
いつも少しだけ遅れた。

覚えていない。
覚えていないほど
昔のことだった。

よく夢を見る。

海辺にいる。
足元の砂がぬるい。
凪のように穏やかで
遠くに
騒がしく、楽しそうな声が聞こえる。

それを見ている。

本当に見つけてほしいのか
わからない。
向き合ってほしいのかも
わからない。

ただ
この距離にいると
安心できる。

綺麗な言葉で誰かを包むとき
ふと思う。

これは
あの人と同じやり方ではないか。

遠くには届く。
近くには届かない。

やさしさの形をした、刃ではないのか。

気づいている、しっている。
手のひらが冷たい。

凪のそばで
遠い声を聞きながら
近づくことなく、ここにいる。